スモールトーク

いまも辞書には手が届かない

 いちど気になるとどんどんと気になって仕方ないのですが、本を読むことが少なくなって、辞書がどこに置いてあるのか見つかりません。ネットの検索で間に合えば辞書がなくても普段の生活には困ることもなく、仕事のことになると辞書に書かれていることで満足するわけもなく、気がついたら何処か手の届かないところに辞書を放ったらかしてしまったようです。捨てたわけでなく、片づけたわけでなく、失くなって見つからないのです。そもそも、本を読まないことの方が重大です。仕事がら、文字は読んでいるのですが、その多くはパソコンかタブレットの画面で、紙であってもパンフレットか雑誌がほとんどです。隙間の時間にスマホの小さく狭い画面を覗くのでなく、新聞を両手いっぱいに拡げて大きく広い紙面で世界を見る俯瞰を作ろうといわれた研修の言葉が痛く突き刺さります。今年は拾い読みでなく、軽いものも含めて月に複数冊を目標に、初めから最後まで本を読み通すことができる年にしたいと思います。そのためには書くことばかりに時間を割くことを考え直す必要もあると思っています。ただ、そんなことを考えながらも、書物を読まない暮らしも面白いかも知れないという想いが膨らんでいます。何故かというと、私が子供の頃に可愛がってもらった祖母は明治の一桁か十年ころの生まれで、話し言葉の世界で暮らしていて大戦後の新仮名使いもそうですが旧字であっても難しい字は読めず、耳で聞いたことを自分の言葉にして人に話してくれたのですが、そこには文字を読むのとはまた違って人が人に話して聞かせる豊かさがあることを知っているからです。もちろん、情報量は格段に違いますし、伝達の速度も範囲も極めて限定的です。また、古く断片的な記憶が交錯して論理性も再現性もなく記録として不確実です。ウイルスが人から人に伝染するように人から人に伝わる言葉を大切にしながら、ひとり書物を読んで自分の世界に浸る時間も大事にしていかなくては…、などと考えるのは正月のうちだけかも知れません。

2020年12月31日