スモールトーク

もう誰にも叱られない

 もう、叱ってくれる人がいなくなりました。能登の七尾の出身で高校を卒業すると大工の父親の下を離れて金沢で就職し、百貨店の女子寮に入寮したときが始まりです。バレーボールが大好きで背もある彼女は、歯茎モリモリの自称筋肉質で、背筋が伸びてとても健康的でした。この年代の石川県はいい選手も多く競技を続けたかったのかも知れません。落ち着いた雰囲気としっかりした態度で、研修前には顔も剃らずに現れ、口元に産毛を蓄えたその立ち姿は勇ましくもありました。私の部署への配属案を出すと課長はそのまま社長決裁を受けてしまい、それから長い時間が早々に過ぎました。人事の配属でよかったのか、ずっと後になって尋ねたときの「ウン」と言う返事が忘れられません。今ここでこんなにあっさりと別れが訪れるとは、受け入れ難い出来事です。
 仕事ぶりは並の並み、自分で抱え込まず人に振り分けるタイプで、多少のミスに怖じ気づく気配はなく、「ゴメーン」と豪快に笑い飛ばすのはずっと変わらなかったようです。恐るべきはコミュニケーション能力で、毎年100人を超える新入社員の名前と顔を数日のうちに覚えてしまい、一人ずつのキャラクターをワンポイントで把握していました。力仕事も嫌がらず、制服を詰め込んだ箱を抱えたり積み込んだり、期待以上の頑張りもありました。そして、制服で助かったのは、何を見せてもデザインが決まらず困っていたとき、ワンサイズ上の安物の試作品を彼女に着せて社長の前に連れて行ったところ、一発でOKをもらってきてくれたことがありました。グラビア向きではなくても本当は筋肉質のモデル体型だと自負していたのかも知れません。でも、着物に苦労した話はよく聞きました。成人式のとき、小学生で母を亡くした彼女は「本家のおばさん」に着付けを頼んだのですが、首や肩に筋肉が残っていて形を整えるのが大変だと嘆かれたそうで、スポーツが大好きな自分の娘の成人式も気にしていました。
 私の微かな記憶では、百万石行列に動員されたとき、妙ななで肩に窮屈そうなカツラだったこと、可笑しく思い出します。着付けのせいではないでしょうが、実家の父親から話があっても、寮の管理人から勧めがあっても、縁談は断っていたことしか知りません。その後、私は異動になり暫くして退職したのですが、何年か名前が変わった時期があった後に「小松に嫁に来た」と誇らしそうに知らせてきました。どこか自慢気で、出戻りの姉が近所に嫁いで来たようで、私まで嬉しい気分でした。そのうち、百貨店の希望退職に応じて仕事を探しているというので自分の事務所に誘いました。当たり前に成長して仕事も覚えて頼もしく、相変わらず他愛ない我がままと見事なミスで人を巻き込み、そして何よりもここぞという大事なところでは必ず助けてもらいました。
 生まれ育った七尾よりも小松の暮らしが長くなったのに、子供が主役の小松の祭りは物足りなくて、故郷の七尾や親戚のある岸和田の祭りが大好きで、男若衆の威勢のいい祭りに出かけるのが元気の源のようでした。数年前にガンが見つかり手術したとき、例年のバスツアー参加は見送ろうと相談しても納得せず、同僚にこっそり「監視」を頼んだのに周りが振り回されるほどでした。いつも、子供たちの部活や進学を楽しみにしていて、上手に段取りをつけて応援や付き添いに走り回り、それで仕事に手を抜く気配は有りません。気ままに伸び伸びと仕事をする職場の様子を見て、同業の社労士が事務所の雰囲気をベタ褒めにしていったこともあります。多少のことで慌てることがなく、ゆったりと和らいだ事務所のムードは彼女のペースに染められていたようです。
 振り返ると、どんなときも彼女は私のお守りをしているように叱ってくれたり助けてくれたり、いつの間にか姉のようなポジションを取られてしまいました。多少の小言は心地よく、叱られても腹は立たず、八つ当たりしても上手に受け止めていいところで返してきて、大事なところでムチを入れられ、気がつけば助けに回ってくれていて、ずっとこのまま一緒に居るのが当たり前のように思い、そのうち…と考えていたことばかり、息子さんのの就職も気がかりだったし、聞いて欲しいことも一杯あったのに、何もしてあげることができませんでした。濃密な人生の最後に食べかけのクッキーとチョコレートをパソコンの脇に残したまま、顔を見ることも話すことも何もできずに突然のお別れになるとは、、、今からでも出来ること、一つでも半分でも何かさせて欲しいと願っています。

2021年5月16日