スモールトーク
天領黒島洋式和船

お旅まつりもおかえり祭りも終わって、初夏というより真夏並みの気温になる日が続き、海辺から山を眺めると大日山の雪は消えて白山が涼しげに雪を残すのみになりました。気温が高いとはいえ湿気は少ないようで、日陰で昼寝するには心地よい浜風が入ってきています。もちろん、休日の朝から昼寝というわけにはいかないので、少しだけ花壇の草むしりをしてから能登の外浦を海岸線沿いに車を走らせてみました。書店の店長から北前船で栄えた黒島にある廻船問屋住宅の見学を勧められたので、翌月に内浦の方で計画しているイベントの下見を兼ねて出かけたものです。今は輪島市に編入されていますが、以前は門前町の一部であり、合併されるまでは黒島村として明治時代になるまでの天領としての自治の伝統もあるようです。黒瓦に板張りの家屋が海岸沿いの斜面に密集した集落を県道から見上げると、きっと何度か県道を通った人にはここだったたかと思うぐらいに印象的で、能登半島地震のあと同じ大工さんが施工したからという理由だけではない町づくりと復興への意欲を感じます。ゆっくりと歩いて廻るのも面白そうな街並みでしたが、国の重要文化財に指定されている旧角海家住宅が公開されていて、こちらと北前船資料館を案内してもらうことができました。北前船と聞くと江戸時代の帆かけ舟というイメージが先行しますが明治になってからの交易の方が多いとされており、明治期に奉納された絵馬に描かれている北前船は舳先に三枚のジブセールを張り艫にもスパンカーが附いています。ただ、洋式の艤装はセールの数だけ人手が掛かり、数名で済んでいた乗組員が十名以上も必要だったそうです。地元だけで船大工や乗組員を集めるのも大変なので、大阪に拠点を置くようなことを考えたり、船主は万一に備えて農地を少しずつ買い集めておいて、海難の際には船員の家族に小作としてこの農地を分け与えるなどの対応を考えたりしていたようです。単に輸送だけでなく寄港地で積荷の売買も業としていた北前船は船頭の才覚によるところも大きく、電信と鉄道の発達で次第に商社的機能を兼ね備えた海運が商売として成り立たなくなり、汽船の普及により役割を終えたそうです。もともと黒島に大きな港は無く福浦が風待ちで、今は改良された隣の鹿磯漁港からイカ釣り船の船団が日本海沖を目指して出ていきます。
2019年6月7日