スモールトーク
長生きの値うち

立退要求。「ここまで長生きしてこんな目にあうとは」…90歳を超えた自分の母からこんな言葉は聞きたくありませんでした。法務局の事業ということで、昨年一年かけて私の生まれたところであり今も母が住んでいる土地一帯の測量が行われ、自宅の敷地の中に登記をしていない地番が一筆まるごと入っていることが確定しました。それ自体が不可解なことであり何かの間違いだろうと思っていたところ、登記名義人から「直ちに建物を取り壊して立ち退き、土地を原状に戻して引き渡せ」との求めを受けました。年老いた母親の着物を引き剥がし洗って返せと言われているようです。母に確認しても「皆で間違いなく境界を確認して買った」「勝手に建てたのでなく建物ごと買った」「売主が住んでいた屋敷をそのまま買った」「買ったものは自分のものだ」「誰かに騙されたようなことはない」と何度も同じことを繰り返すほかは、父の自転車に乗せてもらって何度も家を見に来たこと、父の同級生たちもお金を出し合ってくれたこと、祖母も永く住んだ村を去ることに同意してくれたこと、祖母の仏壇と仏具を持ってきたこと、村の人達も家の下見に来てくれて買う決心をしたこと、売主の奥さんが大きな機屋さんの娘だったこと、などなど限りなく昔話が続いてしまいます。ただ、困るのは「誰に聞いても分かること」「みんなに聞いてもらえ」と母が言うのですが、聞く相手が誰一人いなくなってしまったのです。東京で事業を始めたという売主夫婦も、当時は隣に住んでいた売主の親も兄弟も、騙すはずがないと母が信じきっていた人たちはもう誰も生きていないのです。残っているのは登記と建物、そして損得勘定よりほか何も必要としない人間です。今となれば、70年か80年は経っていると思われる古い建物だけが母の話を分かってくれるのかもしれません。思いがけず、小学校の跡地が母の生家だったことの自慢、父親の死後は米商いを続けられなかった無念、弟が出征するのに見送りも許されなかった不安、嫁ぎ先で一から畑仕事を教わったことの感謝、今まで生きてきたことの不思議、私が生まれる前の母のことを聴くことができたのは、これも母からのメッセージと思うと、やはり父と買い求めた家に長く暮らしてよかったと言ってもらえるよう私の役割が定まったということのようです。
2014年3月8日