スモールトーク

阿弥陀も銭きり

叔母が亡くなり葬儀が終わったあと、家の近くのお寺の住職の話を聞かせてもらう機会がありました。お寺さんの話や教団の話、お経の話や法名の話など、何となく耳に入ってくることでもよく分かっていない話ばかりで、阿弥陀如来の御縁というあたりから雑念を交えて他のことを考えていました。仲間内で物を配るとき面倒くさくなると、たまにアミダくじをすることが有ります。このアミダくじの名称の由来は、お椀などで中心を隠して放射線状に人数分の線を引いて、各自が選んだ線の先に結果が書かれてあって、その形が阿弥陀如来の後光に見えるからだそうです。結果に不満が出ないよう阿弥陀の威光を頼ったとの説もあるようですが、今は平行線を引いて所々に梯子を渡すスタイルですので、後光は拝めません。如来の因縁なのか、土地柄なのか、私が加わるアミダくじは外れクジを作らないことが殆どです。均等な配分でなくて其々に違いのあるバラバラの物を皆なに配るとき、都合のいい分け方としてアミダくじを作ると収まりが良くなります。外れ籤がないというところで、阿弥陀如来を頼れば誰もが捨てられることなく全て皆が必ず救われ浄土に往くことと重なるように思います。叔母が亡くなり、七日ごとに僧侶の説教を聞きながら、そんなことを考えました。私は宗教に近い位置にいると思ったことはないのですが、高橋和巳の長編「邪宗門」に描かれたひのもと教団を思い浮かべると、僧侶の話が面白く聞こえます。実は、30年前のオウム真理教が活動していた頃、超能力を宗教と直結するような取り組み方に違和感を覚え、漠然とした中で思い出したのがマルチン・ルターの免罪符批判でした。カトリック教会の免罪符にどんな力があったのか分かりません。魔力か神通力か超能力か何かを望む人がいたことは確かで、オウムの超能力に何か現世の悪行の責を免れることを期待し、超能力で救いを得ることを望み救いを与えることを望む人たちがいるのだと思いました。アミダくじでは満足できない人たちがいたのだと思います。お守りもお札もなく御朱印ももらえないアミダさん、阿弥陀如来のご利益を売るのは容易ではなさそうですが、外れクジを引くこともないと思えば落ち込まずに済みます。クジの話だけでなく、阿弥陀如来を信じ救いが定まって浄土に往くなら地獄に堕ちることなく、身はこの世に在って感謝しながら暮らすことができるそうです。悪人正機と言われるように、善を重ね多くを貢げば相応の救済を得るのでなく、善業で悪行を相殺するのでなく、ただ一度でも救いを信じる契機を得たならそれで十分で、お守りやお札は持たず呪いも祈祷も護摩も必要がないという話です。既に救いが約束されたなら「地獄の沙汰も金次第」などと言う理由もなく、何の心配もないはずなのに、昔の年寄りの「阿弥陀も銭ぎり」という言葉が伝わっています。地獄に墜とされることはなくてもずっと前から極楽浄土が格差世界になっているようです。そのうち、超能力者が運命を司るオウム籤か何か考案されるかも知れません。